≫はじまりの日≪
電車が緩いカーブにさしかかった時、俺は右肩に小さな衝撃を感じた。
ぽすん、と寄りかかられた柔らかさは、隣に座った女性のもので、
彼女はどうやら熟睡してしまっているようだった。
赤の他人の俺を枕にしても、気がつかないほどに。
そのあまりのおさまりの良さに、つい今まで苛立っていたことも忘れて、
俺は笑いそうになっていた。
「……ん」
小さな声が聞こえる。
仕事帰りなのか……よっぽど疲れているんだろう。
――この人、ええ匂いやな。
真横にいるせいで顔を見ることはできないけれど、さらさらと揺れる髪からだろうか。
女性は、甘くやさしい香りに包まれていた。
俺はふと、開いたまま膝に置かれている彼女の本に目を落とした。
「!」
――この小説……。
俺は、鞄の中から一枚のチケットを取り出す。
それは、隣の彼女が読む小説を原作とした、映画のチケットだった。
……そしてついさっき、俺が元彼女からつき返されたチケットでもある。
『私、他に好きな人できたから。これも返す。今どき、ラブロマンスなんて好きな女いないよ?』
そう言って立ち去ったあいつの背中を、俺はささくれ立った思いで見送ったのだけれど。
――おるやんか、ここに。
俺は試合に逆転勝ちした時に似た、こみあげる嬉しさを感じる。
そしてなにも考えないまま、手にしたチケットを、彼女の本にしおりのように挟んでみた。
「……」
――って、俺。なにしてんのやろ……。浮かれ過ぎや。
自分に突っ込みを入れつつ、チケットを回収しようと、手を伸ばした時…………
「あ」
本は彼女の手を離れ、パタンと閉じられてしまった。
「……ん、あれ……? 私……」
弾みで、彼女も目を覚ます。
そして自分の状況に気がついたのか、ガバッと身を起こし、俺の方に向き直った。
「! ご、ごめんなさい! 寄りかかってしまって……!」
「あ、いや。それは、全然構へんのやけど……」
――なんか……可愛え人やな。
勢いよく謝罪してくる女性に、俺は頬が緩むのを感じた。
「あ、あれ? このチケット……」
その時、女性は手元の本に目をやった。
挟み込まれたチケットが、半分顔を出している。
俺は腹を決めた。
低い声で、隣の彼女に囁きかける。
「……よかったら、一緒に行きませんか?」
これが、俺とのはじまりの日。
end.
お久し振りの新作夢粒です。
忍足さんのお誕生日に、愛を込めて。
こんなはじまりの日はいかがでしょうか?